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【小諸善光寺の御開帳】長野善光寺・御開帳に合わせて両詣り! 5月30日までご覧いただけます!

小諸善光寺御開帳

小諸善光寺御開帳

今年は7年に1度の善光寺の御開帳の年です、皆様回向柱はさわりましたでしょうか?

実は小諸にも「善光寺」があるのはご存知でしょうか!

場所は小諸市の東雲にあります「立志山 大雄寺」というお寺です。
こちらは全国善光寺会の会員でもある、「小諸 善光寺」といわれるお寺です!
現在こちらでも、ご本尊の御開帳をしておりますので、是非小諸にいらして善光寺の「両詣り」をしてみてはいかがでしょうか!

善光寺同時御開帳

※朱印は住職在宅時のみ可能です。

2015年05月31日(日)まで
10:00~15:00

小諸善光寺の由来
伊豆の豪族・河津祐泰が伊豆の狩場で一族の工藤祐経に殺された。18年後の建久4年(1193)、源頼朝が富士の巻き狩り陣中、河津祐泰の子で兄・曽我十朗祐成、弟・五朗時致の兄弟が、父の仇・工藤祐経を討ち、怨を晴らしたが、源頼朝に即刻切腹を命じられた。十朗の妻・虎御前と五朗の愛婦は共に剃髪し、その菩提の為、信濃善光寺如来に百度参り参詣を志したが、相模よりは遠く女子の足では大変であるた為、佐久郡大井の郷に留まり、小庵を造り此処より往還して志を成就した。
 その後、その地に善光寺の建立を志し、寛元2年(1244)7月10日、阿弥陀如来本尊を鋳造、同8月、観世音菩薩、勢至菩薩を鋳造。寛元4年(1246)入仏供養の大法要を行い、佐久善光寺と命名した。時の佐久地方の豪族・大井氏、伴野氏、依田氏が大檀那となり寺領千石の寄進もあり、伽藍十二坊に及び殷賑を極めた。弘安2年(1279)8月、大井光長公より大梵鐘の寄進があり、仏法繁昌の霊場となった。(曾我兄弟の仇討ち、虎御前の信濃善光寺百度参り、一光三尊仏の鋳造、佐久善光寺の命名、大井光長公の寄進等、大梵鐘の裏側に銘記されている)
 三百余年の後、天文年間(1532〜1555)、武田氏、村上氏の争いの時、兵火により十二坊を焼失。如来尊像と諸像は地元の者により後山に埋められ無事であったが、此の際大梵鐘は武田氏により掠奪され、現在松原湖畔、諏訪神社の境内に納められている。(高瀬落合より南佐久郡海尻まで引き摺られ、上部に20糎程の摺穴が空いている。昭和初期まで、海尻の野原に転がしたまま放置されていた為、「野ざらしの鐘」と云われている)
 その後、武田信玄公が佐久善光寺を再建されたが過去の盛観はなく、徳川時代になり再興を図り、機に応じ仏縁を求め、江戸で出開帳供養を行い、数万の信徒を得ていた。(佐久善光寺の名風に高かりしは、下谷谷中玉泉寺の記録に銘記されている)
 慶応2年(1867)12月、再度、佐久善光寺は焼失。以来久しく跡を絶っていたが、大正7年、大雄寺開山大圓道雄和尚が東京に御本尊がおわすことを知り、大正10年11月15日、無事帰山した。
 昭和4年3月25日、小諸の仮奉安堂に移る。
 昭和5年5月、初開帳供養をし、壇信徒の信仰により小諸善光寺の宿願が成り、同年10月仮本堂の上棟式を行い、同年12月20日落慶法要を行い、今日に至っている。
小諸善光寺 大雄寺
電話 0267-22-1086
〒3840801 長野県小諸市甲3760